【連載】芸術の理解と“解説”

第1回: 解説(言葉による説明)は必要なのか . . . 言葉が内包する問題

1.1 《 問題の提起 》
芸術作品を紹介する場合に、「言葉や文字による解説」が、(A) 不要なのか、それとも、(B) 有った方がいいのか、という問題をずっと考えてきた。自分はこれまでケースバイケースでその都度、何れにするのかを使い分けてきたように思うが、それでよいのだろうか。
(A) に対して、例えば音楽の場合は、音楽自身がそもそも「言語」だといえるのだから、解説は要らない、という考え方がある;
一方、(B) に対しては、難解だと思われるものや 抽象度の高い作品を理解する上で、解説が理解の助けになるだろう、という考え方もあり得る。実際に自分自身もそうして長年にわたって(また今でも)多様な芸術作品に対する理解を深めてきたのだから。

1.2 《 言葉(言語)の問題 》
解説が必要なのか不要なのかを考えているうちに、さらた難しい問題があることに気づいた。そもそも解説を行ったところで、言葉が通じているのだろうか、という疑問が生じるし、また、言葉が通じるか否かの判断自身に客観性はないだろう、という問題もある。
これらがはっきりしない限り、解説があった方がいい とは断言できないのではないだろうか。

1.3 《 アスガ・ヨーンの言葉 》
“Kunst i sig selv er forklaringen. Og skal jeg forklare forklaringen, forklares duer den ikke. Og var den god nok, vil en videre forklaring blot reducerer den oprindelige forklaringens værdig.”
芸術とは何かということは自明である (芸術作品自身が、それ自身が何であるかを語っているのだから)。
もし、その芸術作品自身(であるところの説明)を説明しようとするならば、その新たな説明は(芸術作品がすでに自らを十分に説明しているのだから)無意味である。芸術作品はそれ自身を十分に説明しているのだから、それをさらに説明しようとするなら、その新たな説明は もとの説明(たる芸術作品自身)の価値を減じるだけだ。

※ 少し補足しておくと、ヨーンが標榜していた態度・姿勢を表す folkelig(形容詞) という言葉 [folk(名詞)] は、英語の folk とはかなり意味が違う。寧ろ people に近いが、(我々の世代の日本人が使う) 大衆という言葉が最も相応しいかもしれない。芸術の大衆化、ポピュラーであること、(エリートその他、特定の人たちでなく) 誰にでも受け容れられるもの、ということ。
ヨーンが共産主義者だったのは興味深いことだ。冷戦の時代において、クラシック音楽のコンクールや芸術性を問われるオリンピック種目において、ソ連の演奏家が上位入賞を独占していたことに注目する必要がある。と同時にまたソヴィエトでは、連邦を構成していた諸国の民族音楽も手厚く保護・奨励されていたのである。
つまりソ連ではクラシック音楽は、エリート教育を施された音楽家によって演奏され、ふつうの大衆からなる聴衆によって受容されていた。

SNSも(辞書と同様に)目的を持つべき

あるデンマークの言語学者に言わせるなら、(文字で記述される)辞書というものは、明確な目的を持っていなければならない (そうでなければ、辞書という道具を明確な目的に従って使おうとするユーザーの目的を満たすことができない価値のないもの、ということになるので)。

同様の論法によれば、文字や画像、あるいは映像情報を用いて人間同士のコミュニケーションを図るところに成立するSNSもまた、明確な目的を持っていなければならない(持つべきだ)ということになるかもしれない。

個人的には、心的丁抹人の徳さんはその考え方に全く同感だが、同時にこのことは、(その人が)個人と社会やコミュニティーとの関係を、どのように認識・理解しているかに依存している (日本人の多くはこれまで長年にわたって、そのようなこと…強いて言えば公共性…を意識しないような社会に生きてきた)。

けれども、IT化されたグローバルな社会におけ個人と社会との関係は、否応なしにそのような個人の意識そのものの在り方を問うものになっている。そして、その問そのものが、主として文字によって行われるのだから、その問が意味を持つか否かは、文字自身が内包する目的意識、ないしは道具性に依存する。

この点でまさに、日本語という言語の道具としての脆弱性が一気に暴露されるのであるが、その一方でまた、多くの(特に若い世代の)日本人が文字に依存しない言語、あるいはヴィジュアルな記号による(論理的ではなく)感覚的なコミュニケーションに長けてきている、ということも確かである。

心的丁抹人の徳さんの関心事は、この感覚的なものと社会的なものとの間に、どのように橋を架けるか、ということなのである。

https://tidsskrift.dk/lexn/article/view/18581/16249
Henning Bergenholtz と Vibeke Vrang による、”Den Danske Ordbog” (København: Det Danske Sprog- og Litteraturselskab / Gyldendal 2005) のレビュー:
Den Danske Ordbog: en ordbog for lingvister!. LexicoNordica, (13).